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2025第1回学長文学歴史サロン

第1回(8月31日)

①講演「瀬戸内海航路と兵庫津

学長 田辺眞人

台風時の太平洋の波の高さや冬の日本海の風波と比べると、太古から瀬戸内海がいかに安全な水路であったか想像がつく。その内海の東の詰まりが大阪湾だ。日本では西からのジェット気流が卓越するから、内海の東詰まりの大阪湾では風の起こす波が荒い。しかも西からの風と逆向きに、淀川・寝屋川・大和川などが東から流れ込むため、大阪湾東岸は波がざわめき、波が高い、波が速いことで「浪速」と呼ばれてきた。このナミハヤがナミハからナニハと訛り、浪花・浪華などの字があてられた。今の大阪地域の古名で、古代の浪速津は瀬戸内海航路東端のターミナル・ポートであった。

田辺眞人著「神戸かいわい歴史を歩く(大輪田泊から兵庫津へ)」より

 動画リンク⇒瀬戸内海航路と兵庫津Ⅰ  

 

 

 

 

浪速津の一つ西の船泊まりとして、神話的な時代には武庫の水門(阪神西宮近く)が古事記や日本書紀に記され、七世紀には敏馬の浦(灘区海岸部)が万葉の古歌に読まれ、奈良時代には「大輪田泊」(兵庫区)が浪速津の一つ西の船泊まりと定まった。造船・航海技術の発達で、大阪から一回の航海の距離が、古墳時代のころは西宮まで、七世紀には灘まで、八世紀には兵庫まで伸びたということだろう。天平十九年(749)の法隆寺資材帳に伊米野(夢野)の東に「弥奈刀(湊)川」の記述があるから川口が大輪田の船泊になっていたので、湊川と呼んだのだろう。大型港湾や最終目的港を「津」と呼び、航路上の停泊地を「泊」と呼んだとする説は、「浪速津」と「大輪田の泊」との古代の港の格付けをよく理解させてくれる。

動画リンク⇒瀬戸内海航路と兵庫津Ⅱ

しかし、平安時代になると浪速津の問題点が露呈する。平野の西の浅海に大川が運ぶ土砂が堆積し、航行が危険になると、浪速では竹や棒を紐で結わえた航路標識を浅瀬に立てて、船の座礁を防がねばならなくなった。この航路標識が澪標(みおつくし)で、それを図案化したものが今の大阪市の市章である。加えて、平安遷都以降は都から山陽道で直行できる大輪田泊のほうか、大川を渡らねばならない浪速津より便利になった。こうした平安末期の十二世紀後半に、平清盛が築島を築いて防波堤代わりにして安全性が増すと、瀬戸内海航路東端では大輪田泊の優位は決定的になった。鎌倉時代からは港の周囲に町も形成され始め、以後江戸時代までに町と港は「兵庫津」と呼ばれるようになった。

田辺眞人著「神戸かいわい歴史を歩く(大輪田泊から兵庫津へ)」より

 

 

 

 

②落語『兵庫船』

 落語家 桂 阿か枝

『兵庫船』(ひょうごぶね)は古典落語の演目。『兵庫渡海鱶魅入』(ひょうごとかいふかのみいれ)、『兵庫舟鱶の魅入れ』(ひょうごぶねふかのみいれ)『兵庫舟鱶の入れ込み』(ひょうごぶねふかのいれこみ)とも呼ばれる。もとは上方落語における長編『西の旅』の一部である、『桑名船』(くわなぶね)の演題で東京でも演じられる。

旅人たちを乗せた船が鱶の多く棲む海域で止まってしまい、助かるために所持品を海に入れろ(そして沈んだ者一人が他の者の身代わりとして自分も海に入れ)と船頭に命じられて起きる騒動を描く

③ 対談

動画リンク⇒◇落語「兵庫船」&対談

 

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