2024第4回学長文学歴史サロン
第4回(12月8日)
①レクチャー「吉良上野介と高師直~阪神間の師直の足跡」
学長 田辺眞人
高 師直(こうの もろなお) 南北朝最強の武将で、最近では、室町時代の設計者として新たな光が当てられている。 南北朝時代、足利尊氏の右腕として活躍した高師直。古来、神をも恐れぬ好色な大悪人とされてきたが、戦では南朝の名将・北畠顕家や楠木正行らを次々倒し、恩賞制度を改革して武士たちの支持を集めた。最近では室町幕府の基礎設計をした功労者として新たな光が当てられている。しかし、尊氏の弟・直義との対立から、武士たち支持を失い、ついに一族滅亡の憂き目にあう。師直はいったいどこで間違ったのか?乱世の英雄。 (NHK 英雄たちの選択より) 左の騎馬武者像は、師直の肖像ともいわれる
時代を経て、元禄赤穂事件を題材に近松門左衛門が書いた「碁盤太平記」 では、浅野内匠頭を塩治判官、大石内蔵助を大星由良之助、吉良上野介を高師直の名で絵かがれています。なぜ・・・物語のヒール役の「上野介」に「高師直」の名前を使用したのか・・・ 「太平記と碁盤太平記」 「室町と江戸」 「上野介と師直」 と 師直塚が残る阪神間ての師直の足跡をたどります。
動画リンク⇒第4回学長文学歴史サロン「吉良上野介と高師直」序章
南北朝時代の武将で,このあたりで戦死した高師直の塚です。南北朝時代の観応2年(1351年)2月,幕府の将軍足利尊氏(あしかがたかうじ)と執事の高師直(こうのもろなお)は,尊氏の弟直義(ただよし)と打出浜(芦屋市)で戦い,敗れ、須磨の松岡城に入りました。
敗戦で希望を失った尊氏らはそこで切腹を決意。しかし、急遽和議が整って今日に帰りました。ただ師直は、山陽道を今日に帰る途中、武庫川の東方で、直義方の武士に殺されました。そこに師直塚の碑が建てられました。
伊丹市池尻1丁目地内 JR伊丹駅前・阪急伊丹駅前3番乗り場より市バス1・4・7系統で昆陽里北下車,西へ約100メートル
(昆陽里交差点から60メートル)の水路沿い
②講談『赤穂義士伝 義士の早駕籠』
講談師 旭堂 一海
江戸城松の廊下刃傷事件 1701年3月14日、朝廷の勅使饗応役である浅野内匠頭
この饗応役が大切な日に江戸城松の廊下で吉良上野介に刃傷に及ぶ。ご法度の刃傷に激怒した綱吉は浅野内匠頭に即日の切腹を命じます。忠臣蔵の発端になった事件ですが、この殿中刃傷事件を知らせる急使(早水藤左衛門・萱野三平)は、3月19日午前4時頃、2挺の早かごが播州赤穂の国境にある高取峠に至りました。
1挺に4人の担ぎ手と2人の引き手と押し手が1組となり、宿場ごとに乗り継ぎながら昼夜走り続けてきた。その距離は、155里(およそ600キロメートル)。江戸からわずか4日半という通常では考えられない早さでたどりついたのだ。
講談『赤穂義士伝 義士の早駕籠』 では、江戸から赤穂へ向かう「箱根の関」その門限に遅れた急使・・・一刻も争うなか閉ざされた門をいかにして通過できたのか旭堂 一海 先生 にご講談いただきました。
動画リンク⇒◇第4回文学歴史サロン講談「義士の早駕籠」ハイライト
赤穂市高取峠 早駕籠像
レクチャー「吉良上野介と高師直」 資料