2024学長文学歴史サロン
今回の学長文学歴史サロンでは
源氏物語(平安)や平家物語(鎌倉)、そして江戸の怪談話まで・・・歴史と文学で阪神地域をめぐります。
第1回(8月7日)
清和源氏の成長期~「光る君へ」と阪神地域
NHK大河ドラマ「光る君へ」の紫式部「源氏物語」を書いた平安時代・・・地方の治安が不安になり自衛のための武装集団が「ものの夫」(のちの武士)が集まり棟梁と呼ばれるリーダーのもと組織化された。その2大勢力が源氏と平氏である。
桓武天皇を祖とする平氏、清和天皇を祖とする源氏、東国では平氏そして西国では源氏がその勢力を拡大していくなか源氏は、都に近い利を生かし藤原道長などに仕えた。とりわけ、源満仲(多田源氏)とその子・頼光(摂津源氏)・頼親(大和源氏)頼信(河内源氏)は、それぞれの地で基盤を確立した。 頼信(河内源氏)の子孫には源頼朝や新田・足利につながり鎌倉そして大平の時代へ続いている。また、清和源氏(多田源氏)の拠点であった摂津「多田の庄」(現在の川西市)であるとして阪神地域とのかかわりを話されました。
講話をしめくくって 「源氏物語」の主人公(光源氏)がゆえあって移り住んだ「須磨」同じような境遇で芦屋や須磨に移り住んだ在原行平と業平の歌や伊勢物語とともに紹介した。
かの須磨は、「昔こそ、人の住みかなどありけれ、今は、いと、里ばなれ、心すごくて、海女の家ただまれなむ」と聞きおはすべき所は、行平の中納言の、「藻潮たれつつ゜わび」ける家居、近きわたりけり。
海面はやや入りて、あわれに、すごげなる山なかり。垣のさまよりはじめて、めづらかに見給う。葺屋ども、葦ふける廊めく屋など、をかしう、しつらひなしたり。
須磨は、いとど心づくしの秋風に、海はすこしとほけれど、行平の中納言の「関ふき越ゆる」と言ひけむ浦波、夜夜は、げに、いと近う聞えて、またなく、あわれなるものは、かかる所の秋なりけり。
第12帖 須磨 第2章光る源氏の物語 夏の長雨と鬱屈の物語 第一段 須磨の住居
第2回(8月25日)
①レクチャー「鵯越の逆落しはどこか『一ノ谷』地名の広狭二義説」
学長 田辺眞人
動画リンク⇒文学歴史サロン2024「鵯越の逆落しはどこか」序章
寿永三年(1184)2月7日、神戸での源平の決戦で、福原遷都以来この地を熟知し数の上でも優勢だった平家軍が敗退してたのは。義経の鵯越の坂落し作戦の結果だった。この鵯越の位置について従来、論争があった。歴史地理上、鵯越は六甲山地中央部を南北に越え北区山田と兵庫津を結ぶ山越えみちなのだが、「平家物語」は繰り返し「一の谷の後ろなる鵯越」と明記しているからである。坂落しの舞台は兵庫り背山なのか、須磨の背山だったのかという論争である。
田辺眞人著「神戸かいわい歴史を歩く」より
②琵琶演奏『琵琶で聴く勝者と敗者それぞれの一ノ谷合戦』より
「逆落し」(ハイライト)
筑前琵琶奏者 川村旭芳
動画リンク⇒◇第2回文学歴史サロン 『琵琶で聴く勝者と敗者それぞれの一ノ谷合戦』 「逆落し」ハイライト
「逆落し」 《戦の神》と後世までも称えられる源義経の名を、一躍世に知らしめるきっかけとなった奇襲戦。「鹿も四つ足 馬も四つ足 鹿の越えゆくこの坂路 馬の越せないと道理はないと 大将義経真先に~」と、かつて小学校唱歌に歌われた、源平合戦お馴染みの名場面です。田辺学長のレクチャーに合わせて選曲いたしました。
③対談『琵琶の楽器と平家物語』
川村旭芳/田辺眞人
動画リンク⇒◇第2回文学歴史サロン 対談 『琵琶の楽器と平家物語』
多く人が文字を読めなかった時代、物語は人が語り継がれていった。とりわけ、「平家物語」は琵琶の楽器演奏とともに語られました。
第3回(9月1日)
①レクチャー「元禄文化と阪神地域」
学長 田辺眞人
動画リンク⇒文学歴史サロン2024「元禄文化と阪神地域」序章
江戸開幕から家康・秀忠・家光と三代つづいた「武断政治」全国300諸侯のうち200ほどの藩がとりつぶされ40万人近くの浪人を生んだ。1651年「慶安事件」はそんな時代に起きた反乱である。そんな幕府も5代綱吉の時代には、新田開発による増収による経済発展とともに幕藩体制の安定期を迎え、幕府や諸大名は学問を奨励し「文治政治」へと転換していく、このころ日本の識字率も高まり、貴族や武士の見ならず庶民も文学・文芸にふれる機会が高まるともに美術・工芸においても特色ある文化(時代)を生んだ「元禄文化(時代)」である。
②講談『怪談 吉備津の釜』 ハイライト
講談師 旭堂 一海
動画リンク⇒◇第3回文学歴史サロン 「怪談 吉備津の釜」ハイライト
雨月物語は、元禄時代から少し時代が下る1768~76年、上田秋成によって著わされた読本(よみほん)作品で、日本・中国の古典から脱化した怪異小説9篇から成っています。
「吉備津の釜」はその1篇です。
あるところに正太郎という色欲の強い男がいました。父の言うことも聞かずに遊び歩いていたので、嫁を迎えれば落ち着くだろうと縁談がまとめられます。婚姻の前に吉凶を占う神事、御釜祓いをすると凶という結果が出てしまいます。
しかしもう縁談は進んでいた為、そのまま婚姻する事に。
嫁に来た磯良はよく出来た女性で、非の打ち所がありませんでした。しかし時が経つにつれて正太郎はまた愛人をつくり、家に帰らなくなります。挙句の果てには磯良を騙して金を奪い、愛人の袖と駆け落ちする始末。磯良は心労で体調を崩してしまいます。
駆け落ちした正太郎でしたが、袖は何かに取り憑かれたように体調もおかしくなり、数日後に死んでしまいました。正太郎はひどく悲しみ、毎日墓参りします。
そんなある日、墓に女が居ました。話を聞くと仕える家の主人が死んでしまって、伏せてしまった奥方の代わりに来ているとのこと。その女が美人だったこともあり、家まで行って奥方と悲しみを分かち合いに行くことになります。家に行ってみると、屏風の奥から現れたのはなんと磯良でした。血の気もなく恐ろしい姿をしていたので、正太郎は気絶してしまいます。
ふと気づくと、正太郎は三昧堂に居ました。その出来事を知人に話すと、陰陽師を紹介されます。陰陽師は「災いがすぐそこまで迫っている。こやつは袖という女の命も奪っているが、まだ恨みは晴れていない。四十九日が終わるまでの間、戸締まりをして一歩も外に出るな」と言います。
正太郎もこの言いつけを守り、その最後の日。夜が明けたので外に出てみると、実は妖術でまだ夜だったのです。
声がしたので知人が見に行くとあたりは血だらけで、そこには正太郎の引きちぎられた男髷があるだけという恐ろしい光景でした。
陰陽師の占いの的中したこと、御釜祓いの示した凶兆もまさにそのとおりになったのは恐るべきことだと語り伝えられています。
③対談『怪談話の主人公』
旭堂 一海/田辺眞人
動画リンク⇒◇第3回文学歴史サロン 対談 「怪談話の主人公』
第4回(12月8日)
①レクチャー「吉良上野介と高師直~阪神間の師直の足跡」
学長 田辺眞人
高 師直(こうの もろなお) 南北朝最強の武将で、最近では、室町時代の設計者として新たな光が当てられている。 南北朝時代、足利尊氏の右腕として活躍した高師直。古来、神をも恐れぬ好色な大悪人とされてきたが、戦では南朝の名将・北畠顕家や楠木正行らを次々倒し、恩賞制度を改革して武士たちの支持を集めた。最近では室町幕府の基礎設計をした功労者として新たな光が当てられている。しかし、尊氏の弟・直義との対立から、武士たち支持を失い、ついに一族滅亡の憂き目にあう。師直はいったいどこで間違ったのか?乱世の英雄。 (NHK 英雄たちの選択より) 左の騎馬武者像は、師直の肖像ともいわれる
時代を経て、元禄赤穂事件を題材に近松門左衛門が書いた「碁盤太平記」 では、浅野内匠頭を塩治判官、大石内蔵助を大星由良之助、吉良上野介を高師直の名で絵かがれています。なぜ・・・物語のヒール役の「上野介」に「高師直」の名前を使用したのか・・・ 「太平記と碁盤太平記」 「室町と江戸」 「上野介と師直」 と 師直塚が残る阪神間ての師直の足跡をたどります。
動画リンク⇒第4回学長文学歴史サロン「吉良上野介と高師直」序章
南北朝時代の武将で,このあたりで戦死した高師直の塚です。南北朝時代の観応2年(1351年)2月,幕府の将軍足利尊氏(あしかがたかうじ)と執事の高師直(こうのもろなお)は,尊氏の弟直義(ただよし)と打出浜(芦屋市)で戦い,敗れ、須磨の松岡城に入りました。
敗戦で希望を失った尊氏らはそこで切腹を決意。しかし、急遽和議が整って今日に帰りました。ただ師直は、山陽道を今日に帰る途中、武庫川の東方で、直義方の武士に殺されました。そこに師直塚の碑が建てられました。
伊丹市池尻1丁目地内 JR伊丹駅前・阪急伊丹駅前3番乗り場より市バス1・4・7系統で昆陽里北下車,西へ約100メートル
(昆陽里交差点から60メートル)の水路沿い
②講談『赤穂義士伝 義士の早駕籠』
講談師 旭堂 一海
江戸城松の廊下刃傷事件 1701年3月14日、朝廷の勅使饗応役である浅野内匠頭
この饗応役が大切な日に江戸城松の廊下で吉良上野介に刃傷に及ぶ。ご法度の刃傷に激怒した綱吉は浅野内匠頭に即日の切腹を命じます。忠臣蔵の発端になった事件ですが、この殿中刃傷事件を知らせる急使(早水藤左衛門・萱野三平)は、3月19日午前4時頃、2挺の早かごが播州赤穂の国境にある高取峠に至りました。
1挺に4人の担ぎ手と2人の引き手と押し手が1組となり、宿場ごとに乗り継ぎながら昼夜走り続けてきた。その距離は、155里(およそ600キロメートル)。江戸からわずか4日半という通常では考えられない早さでたどりついたのだ。
講談『赤穂義士伝 義士の早駕籠』 では、江戸から赤穂へ向かう「箱根の関」その門限に遅れた急使・・・一刻も争うなか閉ざされた門をいかにして通過できたのか旭堂 一海 先生 にご講談いただきました。
動画リンク⇒◇第4回文学歴史サロン講談「義士の早駕籠」ハイライト
赤穂市高取峠 早駕籠像